
わたしは、かれこれ30分の間、こうしてお尻を振り続けている。
背後には、むっとするような存在感のある男がわたしをわたしのお尻を凝視しているはずだ。いや、見てないのかもしれない。
派遣型風俗業のコンパニオン、俗に言うところのデリヘル嬢をやるようになって色々な男たちに遭遇した。やさしく接してくれる人もしれば、ひどいことをする人もいる。わたしの時間を買い、その短い時間で男たちは射精とともに何かをかなぐり捨てているような気がする。その何かはそれぞれで、大切なものを失う人もいれば、新しく蘇生するための過去を払拭する人もいるんだと思う。この仕事をはじめて間もないころは、男たちの捨てたものを持ち帰っていたように思う。仕事を終えた朝方にシャワーを浴びるとき、その持ち帰ったものを剥ぎ取るように、何度も何度も身体を洗った。ときにそれは身体の内部に浸透していたようで、嘔吐を伴うことも珍しくなかった。だけど、いつの間にか、それらを持ち帰ることなく呼ばれた部屋に置いて帰る術を会得したようで、今じゃ仕事を終えた朝のシャワーは、仕事前のそれとなんら変わることはない。呼ばれて、なして、帰って、待って、呼ばれて、なして、帰って、待っての繰り返しにすぎない。
どんな仕事も、いや生きていくこと自体が、結局、繰り返しなんだと思う。繰り返しが嫌で、あちらこちらを転々としてきたけど、いつも繰り返しの日々に戻ってきている。
いや、そんなことはどうでもいい。
問題は、今日だ。今日のこの客だ。わたしにとっても、お店にとってもはじめての客。幾分、慣れてきたといっても、はじめての客はやっぱり緊張する。繰り返しの毎日といっても、男たちは様々だからだ。
呼ばれたホテルの部屋に入ってすぐ、男はこう言った。
「上着は脱がなくていい。シャワーも浴びなくていい。俺を触らなくていい。ただ、スカートとストッキングだけを脱いで、そこのデスクに手をつき、ずっと尻を振って欲しい。時間いっぱい。」
この仕事にイレギュラーは危険な入り口だ。そう言われたわたしは脅えた表情をしていたのだろうか。
「怖がらなくていい。ただ、腰を振ってくれればいいんだ、そこで。」
わたしは、言われたままスカートを脱ぎ、ストッキングを脱ぎ、それらをソファーに置いてデスクに向かい、手をついた。
「どんな風にお尻を振ったらいいのですか。」
「思ったままに振ってくれればいい。やりたかろうと、やりたくなかろうと時間いっぱい振ってくれればいい。」
おばあちゃんの家にあった振り子時計のようにわたしは、わたしのお尻を振った。チクタク チクタク。
男の気配を背後に痛いほど感じる。
男はベッドに腰かけ、ただわたしを見ているようだ。時々、鼻をすする音がするくらいで、深夜2時のホテルの部屋はとても静かだ。
チクタク チクタク チクタク。
わたしの背中に一筋の汗が流れる。男は、その汗を赤ん坊のような柔らかな手でそっとぬぐってくれた。そして、延長することが可能かどうか尋ねたので、可能であることを伝え料金について説明した。もちろん、お尻を振りながら。実は、私自身とても気持ちよくなってきていた。身体全体が下半身になってきたような、そんな心地よさ。腰のまわりにまとわりついていた数々の男たちの情念のようなものがゆっくりゆっくり剥がれ落ちるような感覚。はらはらと。
「そのまま俺の話を聞いてくれ。俺は昨日40になった。20歳で社会に出て、めちゃくちゃ働いて、めちゃくちゃ稼いで、めちゃくちゃ金を使った。外車も買ったし、家や別荘、投資用にマンションもいくつか買って、女もクスリもバクチもやった。世界中の色々な土地にいったし、うまいものもたくさん食べた。ヨットや自家用ジェットも持っている。だけど、いくら持ってもゴールが見えない。広いグランドでひとりサッカーしてるような気分なんだ。大観衆の中、一人でグランドに立ち、無人のゴールにシュートして点数が入った。お前ならどうする?」
「……お客さんたちに手を振って…手を振って…。」
「うん、まあそんなとこだろう。で、その客たちは、次のシュートを期待してお前に歓声を送った。どうする?」
「え…分からないけど、シュートすると思います。」
「そうか、シュートするか。無人のゴールに転がっているボールを取りに行って、適当なところにボールを転がして、そしてシュートする。そして、大歓声と次のゴールへの声援。さて、どうする?」
この人は何を言いたいのだろう。わたしに何を言わせたいのだろう。密室での客商売で、相手の意にそぐわないことを言ってしまうと命取りになることがままある。相変わらず、お尻を振りながら答えた。
「シュートします。」
「よし、そして大歓声と次のシュートへの声援。どうする?」
「シュートします。」
「大歓声と声援。どうする?」
「シュートします。」
「大歓声と声援。どうする?」
「シュートします。」
「大歓声と声援。どうする?」
「シュートします。」
「大歓声と声援。どうする?」
「シュートします。わたしは大勢の人に逆らえるようなパワーを持ってないから、ずっとずっとずっとずっとシュートします。」
「飯も食わずに夜も寝ずにか?」
「……。すみません。いつかはやめます、シュートするのを。」
「観客たちは、お前のシュートを見に来てるんだぞ。それでもやめられるのか?」
わたしはわたしなりに考えた。この人は、いったい何を言わせたいのだろう、わたしに。
「だって一生、そんなことをするのは無理だと思います。無理です、わたしには。というか、みんなそうじゃないですか?ご飯を食べず、夜も寝ずにひとつのことをするなんて。すみません。こんなこと言って。わたし、あまり頭よくないんです。頭よくないから、あまり難しいこと考えられないし、分からないんです。お腹すいたら何か食べたいし、眠くなったら寝たいです。まわりの人が何を言おうとやっぱりそうすると思います。」
「すまん。ありえない話で困らせて。そう、ありえない話のはずなんだ。そんなのありえないはずだ。ありえないはずなんだけど、俺にとって毎日がそうなんだ。観客だけが大勢いて、敵も味方もいない広いグランドでひとり延々とサッカーをしないといけない。来る日も来る日も、朝も昼も夜もゴールし続けなくてはいけないんだ。ボールを蹴っても、誰も跳ね返してくれないし、グランドを走ってもタックルを受けるわけじゃない。ゴールを決めれば歓声が起きるけど、その瞬間に次のゴールを求められる。1000万点分、ゴールを決めても終わらないんだ。」
「でも、いつかは終わるのではないですか?制限時間のようなものがあるはずですし。」
「サッカーならね。前半45分、短い休憩を挟んで後半の45分。そこで勝負が決まらなければ延長戦。そして、PKというシステムもある。つまり、どちらかが勝つまで、もしくはどちらかが負けるまでのゴールが見えている。だけど、俺がやっているサッカーには、どうもそれがないみたいなんだ。」
「あなたがやってるサッカーって?」
「仕事だよ、仕事。俺はサッカー選手じゃないけど、サッカーが好きで、これまでずっとサッカーをしているつもりで仕事をしてきた。耐えて守ることもあれば、一気に攻めあがることもあった。セットプレイでより確実に点数をあげられるようにいくつものパターンを検証して、数え切れないほどリハーサルをして本番にのぞんだ。細かくパスをつなぐこともあれば、カウンターで勝負するしかない時もあった。そして、うまくいった。何不自由ない生活を手に入れた。今の俺たち日本人の平均寿命知ってるか?」
「80歳くらいですよね。」
「そう、80歳。80歳で死ぬとして、昨日40になった俺は、ちょうど折り返したというわけだ。折り返すということは、前半終了のホイッスルが聞こえていいはずだ。俺は、そのときを待ったよ、昨日、ここで。ずっと、ずっと、ずっと待った。だけど、ずっと、ずっと、ずっと待って聞こえてきたのは、ホイッスルの吹かれる音じゃなくて、ゴールへの声援だ。これまでと何一つ変わらず。」
「・・・・・・・。」
「誰もいないゴールにこれからもずっとシュートをし続けないといけないのか、俺は。どう思う?」
わたしは、そんな風になったことないから分からないし、そんな風になることもないから多分、これから一生分からないと思う。でも、この男にとって、その問題は切実でこのままだとこの男は狂ってしまうのかもしれないと思う。いや、もう狂っているのかもしれない。
わたしは、お尻を振りながら、ずっとずっと考えた。わたしは、一体、この今、何をどうしたらいいのだろう。このお尻は誰のものなんだろう。わたしのものだろうか。この男のものだろうか。少なくとも、今だけはこの男のものになっててもいいと思えるような気もする。
「わたしは頭があまり良くありません。良くない頭でわたしなりに色々と考えてみたけど、やっぱりシュートし続けることしか思い浮かびません。でも、それは多分、これまでシュートをしたことないというか、そういう状況になったことがないから、それくらいしか思い浮かばないんだと思います。ボールを強く蹴ることが出来ない、パスもまわってこない、それどころかサッカーのルールさえ知らない。どうやって学んでいいのか分からないんです。本を読んだり、練習したりしても上手になれないことばかりなんです。シュートが上手で、パスもたくさんまわってくるあなたのような人をうらやましいと思ってばっかり。そして、観客になるのにもお金がいる。それも興奮するゲームであればあるほど、その入場料は高いんです。ちょっと前のわたしには、そのお金さえなかった。昼の仕事とこの夜の仕事を掛け持つようになって、途中からこの仕事専門でやり始めて、入場料くらいは稼げるようにやっとなったところなんです。じゃあ、お金を払って見に行ったかというと、見に行ってません。見に行きたい試合がないんです。」
「サッカーだけじゃないだろう。野球もあるし、芝居もある。美術館もあれば、美味しい食事を出してくれるところもある。これらは全部例えだから分かりにくいかもしれないけど、仕事でもプライベートでも自分のやりたいことをやりたいようにやればいいじゃないか。」
「すみません。怒らないって約束してくれますか?」
「怒らない。何を言われても、聞いても怒らない。君の考えていることを教えて欲しい。ただ、お尻だけは振り続けてくれ。決してこっちを見ずに。」
わたしは、ほんの少しだけお尻の振り幅を大きくした。
「ありがとう。とてもきれいだ。」
「わたしの人生はとても平凡でちっぽけなものだと思います。この仕事だって、ただなんとなく続けているだけで目標とか目的とかないし、どこかにお金を借りていてその返済に追われているとか、つまらない男に貢いでいるとか、病弱の両親の治療費を稼ぐためとかじゃないんです。だけど、あなたが言ったサッカーの…サッカーの場合、スタジアムって言うんですよね。そのスタジアムにいる人たちに憧れていたから、わたしもそこで活躍したいしたいと思ってこの仕事を始めたんです。お金がなければ何も始められないと思ったから。そこにいる人たちは、みんなお金持ちでしょ。お金持ちになったら、そこにわたしもそこにいることが出来るし、毎日わくわくして過ごせると思ったんです。毎日、毎日通帳を見ては、少しずつ増えていく数字に満足してました。だけど、最近やっと分かったことがあるんです。サッカーに例えると、えっとえっとえっと…。そうだ、ベッカムという選手がいましたよね。テレビによく出ていて、写真集もある選手。」
「ああ、ベッカムという選手はいるよ。この間ドイツであったワールドカップでは、イングランドのキャプテンだった。とてもきれいなプレイをするし、顔だってハンサムだ。」
「そうベッカムです。かっこよくて、サッカーが上手でお金持ちのベッカム。そのベッカムを見て、わたしはとても憧れたんです。wたしの住んでいる世界とはまったく違う世界にいる人だから。もちろん、ベッカムのような超一流になれるほどの才能はないことくらい分かっています。だけど、そこに近いところまでいくチャンスは平等にあるはずだとも思ってた。何度も言って申し訳ないんですが、そのために必要なもののひとつはお金なんです。お金がなくては、何も始められないんです。このことは、今でもそう思います。ただ、お金がある程度貯まって、さあサッカー選手になろうと思ったときに自分にがっかりしたんです。」
「どういうことだ。サッカーをすればいいじゃないか。何も邪魔するものはないはずだ。」
「はい。サッカーをしようとすれば出来ます。だけど、だめなんです。わたしが憧れたのはベッカムというサッカー選手であって、差カーがとても上手なことではないんです。」
「すまん。よく分からない。」
「いいえ、あやっまたりしないでください。わたしが頭悪いから、うまく説明できないだけなんです。えっと、えっとですね…えっと、わたしが憧れていたのは、サッカーが上手になってみんなに注目されることじゃなくて、ただキラキラしているベッカムのような人の魅力だったんです。なぜ、キラキラしているのかどうかは見えてなかったんです。サッカーなんて上手にならなくもいいというか、ぜんぜん興味ないのに、まわりの人から一目置かれた人生に憧れていただけなんです。多分、あなたもわたしにとってはベッカムと同じ存在なんです。キラキラして、毎日が楽しそうというかだけど、あなたのような人になりたいと思ってこの仕事をはじめてお金を貯めてみたけど、決してあなたのようにはなれないんです。」
「ベッカムや俺のようにならなくても、君は君らしく毎日楽しくなるように…。」
「そのわたしらしくいうのが分からないんです。今日、こうやってはじめて会ったあなたに向かってずっとお尻を振っているのがわたしなんです。楽しいかと聞かれて楽しいことじゃないです。じゃあ、つらいかと言われてもつらくはないんです。ただ、ずっとずっとお尻を振っているのがわたしで、それが多分、一番楽なんです。楽だから楽しいわけじゃないんです。ただ楽なんです。でも、わたしが憧れていた世界に住むあなたは、毎日がつらいと言っています。だったら、多分、ベッカムもつらいんだと思います。サッカー場でサッカーをしているあなたと、そこに行くことさえないわたしが楽しくないとして、じゃあサッカーを見ているお客さんたちは楽しいのでしょうか。」
「いや、きっと本質的には楽しんでいるとは思わないよ。いやなことがたくさんあるから、スタジアムでその憂さ晴らしっていうか、その場のその時だけの大騒ぎを楽しんでいるだけだと思う。本当は、つらいことがたくさんあって、それをいっときでも忘れたいから来るんじゃないかな。」
「じゃあ、あなたのようなサッカーが上手な人もお客さんもわたしみたいな無関係系の人もみんな楽しくないのね。だれも楽しくない。だれも楽しくないのに、あっちこっち世界中でサッカーの試合はあってる。ものすごいお金がぐるぐる回っているだけで、誰も楽しくないのに。いいえ、もしかするとサッカーに絡んだ別の楽しいところがあるのかしら。」
「そういえばそうだね。誰も楽しくないのに、サッカーはなくならないよな、ずっと昔から。どうしてなんだろう。そんなこと考えたことなかったな。君は自分で自分のこと頭悪いと言うけど、そんなことない。俺の方がよっぽどバカだ。」
「いいえ。わたしは頭悪いんです。頭悪いからこんなことばかり考えてしまうんです。頭のいい人は、きっとこんなこと考えないから、どんどん前に進んでいけるんだと思います。」
わたしの下半身は、どうしようもないくらい熱を帯びてしまっていた。わたしはいつもそうだ。出口がなくなると濡れる。わたしにとって濡れることは、放棄することだ。自分と自分以外のすべてを。何かを受け入れたくて濡れるんじゃない。わたしのどうしようもない何かを放出したいのかもしれない。どうしようもない何か。
「だれも楽しくないんだね、サッカーって。あはは。本当に面白い。ありがとう。あはは。あははははははははh。」
男は、キリキリに蒔いたゼンマイを一気に離したように笑い続けた。
「あはははははははは。ごめん。久しぶりに笑ったよ。あはは。本当に愉快だ。だれも楽しくないものにみんな夢中になっている。楽しいのはサッカーそのものだけなんだよ。サッカーという得体の知れない怪物だけが楽しんでいるんだよ。その怪物の中で、みんなきっと何かあると思って、毎日毎日大騒ぎしているんだ。」
そう言うと、男はぴたりと笑うのをやめた。そして、わたしのすぐ後ろまでやってきた。
わたしは、下着を自分で剥ぎ取り、男の背後に向かって高く高く投げた。下着は、想像していていたより長い時間をかけてどこかに落ちた。その落ちる音はまるで部屋に迷い込んできた大きな蛾が、部屋の隅にやっと居場所を見つけたんじゃないかと思わせるようなやさしい音だった。
最も遠くに離れているだろうその男とわたしは、ほんの短い時間だけ重なった。そして昇るわけでもなく堕ちるわけでもないぼんやりしたオルガニズムに達した。わたしたちは、そのオルガニズムに身を任せるというより、ふたりでいつまでもいつまでも眺めるように漂っていた。
暗く出口の見えないオルガニズム。
チクタクチクタク。