2007年02月 バックナンバー

あの森の向こうへ駆け抜けろ

この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。

僕は土砂降りの雨の中を一人走っている。かれこれ1時間は走っているはずだ。不思議と息は切れない。銀色のナイキのスニーカーは、水と泥を吸ってそれはまるで汚れたギブスのように僕を試すように重くなっていく。

目的地は、この森をぬけたところにある音楽堂だ。森は僕が住むシャッター通りが駅前に鎮座する街のはずれにある。江戸時代にときの権力者を接待するためにつくられ、その後、幕末に開国をよしとしない浪人たちが潜伏、最後に集団割腹をしたという悲哀に彩られた場所だ。小さなな森であるけど、きれいに整備され、真夏になってもそこだけひんやりとしている。タバコを吸うのをためらってしまうような凛とした空気が今も昔もそこにある。
その森では、5年前より毎夏、ロックフェスが開催される。とは言っても、海外から大挙してミュージシャンが来たり、旬のロックバンドがジュークボックスように競演するような大きなものではない。この街出身のオールドプレイヤーたちが帰ってきてライブをするのだ。
昔々、この街の不良たちはこぞってロックンロールで自己主張したそうだ。かわいい女の子を振り向かせるために、彼らはエアコンなんかない山の中腹にあったガレージに入れ替わり立ちかわりギターをかき鳴らし、海の向こうへ吼え続けていたとのこと。
そんな彼らはほどなくして、20年前の日本のロックシーンを切り拓くことになる。そして現在もなお生き様としてロックしている。まさに真のアーティストたちだ。
僕の中学生時代の大半の時間を占有していたのは、まさに彼らの音楽たちだった。
それらは、キラキラしていたしギラギラもしていた。

ここ数年間、僕の頭の大半は、いつもイライラしていた。仕事で良い成績を残しても、きれいな女の子と一緒にベッドに入っても、バイクに乗って時速200キロを超えても。まるで、ヘドロの海につかっているような毎日。
そして3ヶ月前、コンビニで支払いを済ませるように勤め先の会社へ辞表を出した。特に揉めることも慰留されることなく受理され、それからちょうど10日後に10年間勤めた会社に行かなくてよくなった。コンビニはレシートをくれるが、会社がくれたのは10年間分の虚無感だけだった。
『失われた10年』というフレーズをどこかで聞いたか、読んだかした覚えがあるが、僕にとってまさにそういうことだ。
ただ、リセット出来たような気がそのときはした。
帰りに車の中で、中学時代につくった今じゃテープも伸びてノイズだらけのマイ・ベスト・トラックスを繰り返し繰り返し聴いた。うんと遠回りして。

だけど会社を辞めても、イライラ感はつのるばかり。部屋から出ても出なくても、僕は僕自身で変わりなく、僕の問題は何も解決しないことに気づいた。僕の問題は、根が深いのか、それとも根無しなのか。

いつのものように昼前に起きて、まずは1本のタバコに火をつける。11階の僕の部屋にあるただ1箇所の窓を2センチだけ開け、ほんの少し冷たい風を頬に感じ、さて今日はこれから何をしようと漫然と考えていた。
すると、遠くの方から音が聴こえた。聴こえたというより、かすかに鼓膜がふるえた。鋭利なカッターを振り下ろしたときのような芯のある風がこの部屋を通り抜けようとする。風は、ベッド脇の壁を跳ね音をたてた。ヒュッ。
風は、枕元に丸まったまま置かれていたフライヤーをほんの少しだけ震わせ、その頭を起こした。そして、ゆっくりゆっくり元の位置に横たわる。それは、今日から明日にかけて行われるロックフェスのフライヤーだった。
タバコに先で行く先を決めかねていた灰は、ベッドの上を舞い上がりスパンコールのように僕のまわりを舞い降りていく。
そして、もう一発、今度ははっきりと遠くの方からの地鳴りのようなバスドラを音が窓の隙間から僕を打ち抜いた。
耳の奥で捕らえたロックンロールの咆哮は、僕の心にあったさびかけた鍵穴の汚れをブワッと吹き飛ばしてくれたような気がした。
あの山の麓に行かなくてはいけない。行くんだ、今すぐ。

エレベーターを使わず、一気に非常階段を駆け下り外に出た。
暴力的な夏の太陽の日差しで僕は一瞬気を失いそうになる。しかし、真っ白な光の中降る土砂降りの雨が僕を正気に戻してくれた。
バイクのキーを土砂降りの雨に中、ギラギラと輝く太陽に向かって放り投げる。どこまでもどこまでも高く。
僕は3度の屈伸と、大きな背伸びの後、全速で道路のど真ん中を走り始めた。走り始めてすぐに背後にキーが地面に叩きつけられる音がした。
それは、遅れて鳴った号砲だ。僕は、走った。20年ぶりに走った。

森に入ると、バスドラの振動が木々をその根元から揺らし、さらに走ると歪んだギターの音が樹皮を剥ぐ。
それらは僕が何度も何度も聴いたあのカセットテープに入っている曲たちだった。
僕は走る。あの頃に走り方を思い出しながら走る。
走りきった場所にあるステージでは、あのロックスターが唄っているはずだ。


はじまりも終わりもない、僕らにあるのはいつも道半ば

だから満ち足りたことなんか一度もない

あるのは、いつもコップ1杯の水

この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。
走れ、走るんだ。


テンニョヒダ(加筆・修正版)

いつも何かに包まれていたいんだとあの人は言った。

わたしは、水産加工物を扱う小さな会社のOLをして12年になる。

就職してすぐにはじめた定期預金は、何度か満期を繰り返した。それは、自分の結婚準備金のはずだった

けど、あの人の言ったあの言葉が私を別の方向に導いた。

半ば強制的にとらされる休日の朝、定期預金を解約し、その足で適当な10坪ほどの中古のワンルームマ

ンションを購入した。

わたしは、そこを二人だけの『カプセル』にしようと思った。

壁という壁すべてを取り払い、配管工事もやりなおして、部屋の真ん中にバスタブを配置した。

ただのワンルームマンションをまるっとバスルームにしたのだ。他に無駄なものは一切置かない。

こことは別に会社の寮に契約しているので、日頃はそこで生活する。

取引先の営業マンFと深い関係になったのは、2年前の桜が咲き始める時期だった。

どちらかというと、わたしの方から誘った。

Fは、39歳の妻子持ちでいつも森林系のにおいがするオーデコロンをつけている。

わたしが、Fを意識するようになったのは、F本人よりもそのオーデコロンのにおいが先だ。

そのオーデコロンの正体を知りたくて、Fに尋ねたのがきっかけでほどなくわたしたちは深い関係を持っ

た。

わたしにとって、はじめての恋愛。

Fにとって、はじめての不倫。

月に一度ペースで、食事をしてセックスをする程度の付き合いだったが、包み包まれ、溶けそうだった。

そして寮に帰ってきてもFのつけているオーデコロンはわたしをゆるやかに緊縛してくれていたし

その緊縛は、翌朝の目覚めまで感じることが出来た。

その朝だけは微かな罪悪感を伴うオーガニズムの後、出社の準備をはじめる。

いつもよりも長い時間をかけて髪の毛をブローする。


Fがまとっていたオーデコロンが生産中止になったのを知ったのは、たまたま見たインターネットのホー

ムページだった。そのオーデコロンに含まれる成分の調達が困難になったのが原因らしい。

俗名『テンニョヒダ』という苔の一種で、その苔が絶滅危惧種に認定されたとのこと。

採取不能になった『テンニュヒダ』なしでは作れないとのことで生産が中止されたのだ。

わたしは、すぐにオーデコロンの輸入代理店を探し出し、連絡をして在庫をすべて買い取った。

またそこと取引のある問屋やショップを紹介してもらい、買い占めた。

国内にあるだろう在庫は、1ヵ月半かけてほぼすべて入手した。

Fの驚き、喜ぶ顔を思い描いては、電話をし、メールを送り、購入するための送金をせっせと続けた。

集まったのは、115本。Fにとって、一生分あると思う。われながら、よく集めたものだ。

また、同じ時期に購入したマンションは、バスルームのみのワンルームとなる工事も終えた。

ふたつのことを終えた週末、わたしはFを新しい部屋に招いた。

オーデコロンを集めたことも、部屋をバスタブのみが鎮座するカプセルに改装したことも内緒にして。

Fは来なかった。

かわりに奥さんから、わたしの携帯に電話があった。

「そちらには行きませんので、よろしく。」

グチャッと音をさせて電話は切れた。

わたしは、バスタブにはじめてのお湯を張り、全部のオーデコロンをバスタブの脇に並べた。

Fの好きな麻のセーターを脱ぎ、淡いグリーンの下着もとる。

不思議なもので、部屋の真ん中で脱げばいいものを、脱衣は部屋の端っこでしてしまう。

壁際で脱ぐ習慣は、スペースが広がっても変えられないちっぽけな自分が、少しだけかわいい。

かなり奮発したつもりの、ゆるやかなティアドロップタイプのバスタブに右足からつかり、一度だけ深く

身体を沈めて身体をひるがえす。

バスタブの脇には、整然と並んだ115本のオーデコロンがある。

1本だけ、キャップをはずしてみた。

湯気のくぐもりともに、Fを感じるにおいがわたしを包んだ。

もう1本あけた。

ここにいないFに少しだけ近づけたような気がした。

さらに、新しい瓶…そして、もう1本。

次々にあけていった。バスタブの中にも入れた。垂らすのでなく、ドボドボと。

そして、115本目は頭からかぶってやった。

部屋の中は、湯気が充満し、オーデコロンの粒子がその隙間を埋めていているのが見えた。

その様は、Fと一緒に行ったプラネタリュウムで見たオーロラだ。

そして、そのにおいは何のにおいなのか分からなくなっていた。鼻をつんざく棘を化していた。

そういえば、『テンニョヒダ』ってどんな植物なのだろう。ふわふわしたイメージがする名前だけど…

棘があるのかのしれない。

ポロポロと涙が胸を伝う。

悲しみからなのか。

それとも、この部屋いっぱいのオーデコロンの刺激によるものなのか。

もうすぐ夜が明ける。

カプセルの中のオーロラは、その姿を変貌させながら移動させながら今にも消えてしまいそうだ。

わたしは、一生分のFのにおいを一晩で使い切った。

Fのにおいは、この先わたしから消えることはないだろう。


テンニョヒダ

わたしは、そこを二人だけの『カプセル』にしたかった。

多分無くなってしまっても世の中的には困らない零細企業のOLをして、せっせと貯めたお金で購入した10坪ほどのワンルームマンション。

壁という壁すべてを取り払い、配管工事もやりなおして、部屋の真ん中にバスタブを配置した。

ただのワンルームマンションをまるっとバスルームにしたのだ。他に無駄なものは一切置かない。

こことは別に会社の寮に契約しているので、日頃はそこで生活している。

取引先の営業マンFと深い関係になったのは、2年前の桜が咲き始める時期だった。どちらかというと、わたしの方から誘った。

Fは、39歳の妻子持ちでいつも森林系のにおいがするオーデコロンをつけている。わたしが、Fを意識するようになったのは、F本人よりもそのオーデコロンのにおいが先だ。そのオーデコロンの正体を知りたくて、Fに尋ねたのがきっかけでほどなくわたしたちは深い関係を持った。

わたしにとって、はじめての恋愛。

Fにとって、はじめての不倫。

月に一度ペースで、食事をしてセックスをする程度の付き合いだったが、わたしにとって、その時間だけは、ほかのどんな時間よりも甘く濃厚だった。

Fがまとっていたオーデコロンが生産中止になったのを知ったのは、たまたま見たインターネットのホームページだった。そのオーデコロンに含まれる成分が原因らしい。俗名『テンニョヒダ』という苔の一種らしい。その苔が絶滅危惧種に認定されたとのことで、採取不能になった『テンニュヒダ』なしでは作れないとのことで生産が中止されたのだ。

わたしは、オーデコロンの輸入代理店に連絡をし在庫をすべて買い取り、またそこと取引のある問屋やショップを紹介してもらい、可能な限り買い占めた。国内にあるだろう在庫は、1ヵ月半かけてほぼすべて入手した。

もちろん、Fのためにスタートした買占めだ。Fの驚き、喜ぶ顔を思い描いては、電話をし、メールを送り、購入するための送金を続けた。

集まったのは、115本。Fにとって、一生分あると思う。われながら、よく集めたものだ。

また、同じ時期にワンルームマンションを購入し、改装を終えた。

ふたつのことを終えた週末、わたしはFを新しい部屋に招いた。

オーデコロンを集めたことも、部屋をバスタブのみに改装したことも内緒にして。

Fは来なかった。来ないかわりに奥さんから、わたしの携帯に電話があった。

「そちらには行きませんので、よろしく。」

グチャッと音をさせて電話は切れた。

わたしは、バスタブにはじめてのお湯を張り、全部のオーデコロンをバスタブの脇に並べた。Fの好きな麻のセーターを脱ぎ、淡いグリーンの下着もとる。不思議なもので、部屋の真ん中で脱げばいいものを、脱衣は部屋の端っこでしてしまう。壁際で脱ぐ習慣は、スペースが広がっても変えられないちっぽけな自分が、少しだけかわいい。

かなり奮発したつもりの、ゆるやかなティアドロップタイプのバスタブに右足からつかり、一度だけ深く身体を沈めて身体をひるがえす。

バスタブの脇には、整然と並んだ115本のオーデコロンがある。

1本だけ、キャップをはずしてみた。

湯気のくぐもりともに、Fを感じるにおいがわたしを包んでくれた。

もう1本あけた。

Fに近づけたような気がした。

さらに、新しい瓶…そして、もう1本。次々にあけていって、バスタブの中にも入れた。垂らすのでなく、ドボドボと。

そして、115本目は頭からかぶってやった。

部屋の中は、湯気が充満し、オーデコロンの粒子がその隙間を埋めていた。もはや、そのにおいは何のにおいなのか分からなくなっていた。鼻をつんざく棘のようなものだ。そういえば、『テンニョヒダ』ってどんな植物なのだろう。ふわふわしたイメージがする名前だけど…。

ポロポロと流れ出る涙は、悲しみからなのか。それとも、この部屋いっぱいのオーデコロンの刺激によるものなのか。

もうすぐ夜が明ける。

わたしは、一生分のFのにおいを一晩で使い切った。

Fのにおいは、この先わたしから消えることはないだろう。