2007年01月 バックナンバー

ビッグスマイル (加筆)

「開戦以来の米兵の死者は、米中枢同時テロの犠牲者二千九百七十三人を上回り三千人を超えた。イラク民間人の死者は、それよりはるかに多い約五万二千人に上る。治安の回復が遅れるほど失われる命も増えてしまう。」

深夜に近い長尺のニュース番組。東北地方の小さな町で一匹の犬が工事中の下水管に入り込み、それを救助しようと右往左往する人間たちのドキュメントがトップから延々と続いた後、週末の天気予報とのわずかな時間にわずかに差し込まれたトピックに解説者はたんたんとコメントする。

「冒頭でお伝えした迷い犬もそうですが、今、この瞬間も生死を分ける命に対して、わたくしたちはもっともっと考える必要がありそうです。」

白々しく添えたアンカーマン。この人はいつもそうだ。スタジオのカメラだけに話しかけている。そこから先につながっている僕らは眼を見ていない。彼にとって僕らは数字でしかない。視聴率という化け物のとりつかれた彼にとって、僕らの存在価値は数字というアイコンとしてしか認識されていない。

「続いて、週末のお天気です。今日は、日本最南端の島にある最南端の炉辺焼き屋から中継です。
僕の以前、一度だけお邪魔したことあるんですよ、そこ。自家製の干物が美味いんですよね~。いいなぁ。こんちきしょうという気持ちを抑えながら、呼んでみましょうか…。」

この国に住んでいると、もはや戦争自体が最初からなかったかのように思えてしまう。
僕はテレビを消した。
テレビの上に飾ってある1枚の写真は、いつもと同じように大口開けて僕に笑いかけている。
「カリカリするな。俺は大丈夫。」
彼は、僕らの間でビッグスマイルと呼ばれていた。
いつもいつもフルスイングで笑っているから。

地平線にいる人が読む新聞の文字が判読できると豪語する彼は、どんなに遠くにいようと知り合いを見つ
けると、大きく手を振って笑い、ずんずんこっちに歩いてきて、ガシっと手を握り、
「元気?」「じゃあね、またね。」
と言って手を振りながら猛烈な笑顔とともに来た道を戻って行っていた。
この2つの言葉が好きなのだそうだ。
そして、この2つの言葉だけで人はやっていけるというのも彼の持論だった。

「がんばってるかい?」
「今度会うときはもっとハッピーなお互いになっていようぜ。」
彼からのメッセージ。
なるほど、なるほど。

ビッグスマイルは、今、イラクにいる。
アメリカにいる息子の養育費のためとのこと。ちょいとアルバイトさと。
イラクに行く前、彼は知り合いの写真家に頼んで1000枚の自分写真をつくった。
そして、ズンズンとやってきては手を握り
「元気?」
「じゃあね。またね。」
と1000人にその写真を渡し歩き、戦地に赴いた。
3日間で1000人1000枚。
最後の一日は、僕の自転車で配ってまわった。

今朝、サドルの裏側にぎゅうぎゅうに丸められたコバルトブルーの折り紙を見つけた。
ビッグスマイルからの手紙だった。

Thank You
Good Bye
Peace
I Hope

ちくしょう!
ビッグスマイルこそ元気か?
毎日、何してるんだ?
帰って来いよ。
絶対たぞ。

今度会うときは、僕からビッグスマイルに声をかけるよ。

「元気?」「じゃあね、またね。」

早く帰って来い。


僕は僕で僕じゃなく、あなたはあなたであなたでない

いつもどおり仕事を終え、やっとローンを払い終えた車に乗って妻の待つ自宅へ帰った。

同棲時代を含めて、8年目を迎えた僕らにとって、今日はささやかな記念日だ。8年前の今日、僕らはここで生活を始めた日。そのささやかな記念日のためのささやかな花束が助手席に鎮座している。自宅では、妻がパスタをつくる準備をしているはずだ。はじめて僕らの家で作ったミニトマトだけでつくるパスタだ。

2LDKの賃貸マンションの玄関を開けようと鍵を差し込んだとき、わずかながらはっきりチリチリとした違和感を感じた。それは、靴を脱ぎ、リビングに向かう3歩歩けば次のドアが待つ短い廊下を進むうちに熱を帯びたように増していく。

「おかえりなさい。」

リビングには黒ぶちの眼鏡をかけた知らない女性がいた。

「あ、ただいま…え…あ、あの僕の妻は…。」

「わたしです。」

ちがう。僕の妻じゃない。目の前にいるのは、知らない女性だ。

「ち、ちょっと待って。うーん…やっぱり違う。あなたは僕の妻じゃない。」

僕はリビングの入り口で立ちつくしたまま言った。悪い冗談だ。夢だ。

「あれ?もしかして知らなかった?300年に一度のリセット法案。」

リセット法案?知る?知らない?何?僕の目の前にいる女性は、少しだけ困った顔をしたまま立ち上がった。そして、彼女は隣の部屋に行き、僕の妻がいつも使っていた携帯用の鏡を僕に手渡した。

「その鏡で自分を見て。」

言われるままに鏡を見た。僕の知らない男が僕をじっと見ていた。