2006年12月 バックナンバー

ロックンロール

この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。

僕はそう信じて、土砂降りの雨の中、一人走り続けている。かれこれ1時間は走っているはずだ。不思議と息は切れない。穴が開いているナイキのスニーカーは、水を吸って泥の塊のようになって僕の足にまとわりついてる。

目的地は、この森をぬけたところにある音楽堂だ。1年に1度、この街出身のオールドプレイヤーたちが帰ってきてライブをする。彼らは、20年前の日本のロックシーンを切り拓き、現在もなお生き様としてロックしている真のアーティストたちだ。僕の中学生時代の大半の時間を占有していたのは、まさに彼らの音楽たちだった。

それらは、キラキラもしていたしギラギラもしていた。

ここ数年間、いつもイライラしていた。仕事で良い成績を残しても、きれいな女の子と一緒にベッドに入っても、バイクに乗って時速200キロを超えても。まるで、ヘドロの海に漂っているような毎日。会社に辞表を出した。特に揉めることもなく受理され、ちょうど10日後に10年間勤めた会社に行かなくてよくなった。

ただ会社を辞めても、イライラ感はつのるばかり。部屋から出ても出なくても、僕は僕自身で僕の問題は何も解決しない。僕の問題は、根が深いのか、それとも根無しなのか。

いつのものように昼前に起きて、まずは1本のタバコに火をつけた。11階の僕の部屋にあるただ1箇所の窓を2センチだけ開け、ほんの少し冷たい風を頬に感じ、これから何をしようと漫然と考えていた。

遠くの方から音が聴こえた。聴こえたというより、かすかに鼓膜がふるえた。

枕元にフライヤーが丸まっている。今日から明日にかけて行われるロックフェスのフライヤーだった。

耳の奥で捕らえたロックンロールの咆哮は、僕の心に火をつけた。

あの山の麓に行かなくてはいけない。

外に出ると、猛烈な太陽の日差しの中、土砂降りの雨を浴びた。

バイクのキーをマンションの屋上に向かって放り投げる。そして、そのまま向こうに見える山に向かって走った。走り始めてすぐに背後にキーが地面に叩きつけられる音がした。それは、遅れて鳴った号砲だ。僕は、走った。20年ぶりに走った。

森に入ると、バスドラの振動が木々を揺らし、さらに走ると歪んだギターの音が樹皮を剥ぐ。走りきったステージには、あのロックスターが唄っているはずだ。

はじまりも終わりもない、僕らにあるのはいつも道半ば

だから満ち足りたことなんか一度もない

あるのは、いつもコップ1杯の水

この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。

走れ、走るんだ。


赤鬼の出べそでりんごを喰らう

『赤鬼の出べそ』と呼ばれるこの場所に新しく道路が出来た。

外周2キロちょっとのそこが、僕の新しいステージだ。1ヶ月前から、ここを毎日、バスで20周走らせている。ぐるぐるぐるぐる。

平日の昼間、家もお店も工場も田んぼや畑もないそこを走っても、ほとんど乗客がいない。

だけど、この仕事はいやじゃない。まっさらな雪の上を滑るのは、こんな気分なんだろう。

今現在の乗客はひとり。あまり見ない制服を来た高校生であろう女の子のみ。ルームミラー越しに見える彼女は、窓からずっと空を見ている。とてもかわいい。

やっぱりこの仕事は悪くない。

「すみません。お尋ねしていいですか。」

「あ、はい。どうぞ。」

マイクを伝う声が少し裏返ってしまった。ちょっとかっこ悪いな。

「一番、景色のいいところで降りたいのですが、どこで降りたらいいでしょうか。」

景色のいいところといえば、岬の突端になる『赤鬼の出べそ展望台入り口』かな。

「展望台がこの先にあるので、そこが一番景色がいいと思うな。」

「ありがとうございます。そこで降ります。」

「了解。」

展望台まで、ここから10分程度だ。天気もいいし、かわいい女の子と二人きりのドライブ。悪くない、悪くない。

「すみません。お尋ねしていいですか。」

「はい。どうぞ。」

今度は、さっきよりかっこよく響いたかな、僕の声。

「運転手さんは、どうして運転手さんになったのですか。」

「うーん、なんでかな。親戚に運転手をしていたおじさんがいたというのもあるけど、運転手になったら仕事中は一人ですべてを出来ると思ったからかな。ずらっと机を並べて仕事をみんな一緒にというのは、多分、自分に向いてないだろうと思ったから。」

「楽しいですか?仕事。」

「うん、楽しい方だと思うよ。特にこんな天気のいい日は。」

「わたし、今日、学校をサボってきたんです。はじめてです。こんなことしたの。」

「そりゃいけないなぁ。と言いたいところだけど、僕はいつもサボってた。」

「楽しかったですか?サボって。」

「楽しかったね。」

「楽しいことばかりですね、運転手さんは。」

「君は楽しくないの?毎日。」

「多分、楽しんでないと思います。学校サボってみたけど、そのことが気になって気になって。小心者がこんなことしちゃだめですね。」

「何か、いやなことでもあったの?」

「いいえ。ただ繰り返しばかりの毎日が退屈だったんです。」

「だったら、僕なんかは最悪だ。毎日、同じ道をぐるぐる回っているだけ。」

「すみません。そんなつもりで言ったんじゃなかったんです。仕事をしている人ってかっこいいと思います。」

「あはは。ありがとう。」

女の子は、いつの間にか、僕のすぐ後ろの座席に座っていた。なんだか、甘い香りがするぞ。

「やっぱり、このまま学校に帰ります。今から帰れば、五限目に間に合いますし。英語の授業なんですよ、外国の映画を字幕なしでは見られない先生の。」

ぷぷっと吹き出してしまった。

「じゃあ、『赤鬼の出べそ入り口』で降りるんだね。学校まで送って行ってあげたいけど、それはさすがに無理だ。」

今度は、彼女が吹き出した。

「ありがとうございます。じゃあ、ひとつだけ行儀の悪いことをしていいですか。」

「どうぞ。」

「え?何をするか聞かないんですか?」

「聞かなくても、そんなに悪いことじゃないと思うから、OK。」

「このバスに爆弾をしかけていて、そのスイッチを押すとしても?」

「このバスの乗降口には特殊なセンサーがついていて、爆発物を持ち込もうとしたら運転席でメロディーが鳴るようになっているんだよ。曲は、『エリーゼのために』。」

「え?本当なんですか?」

「うそです。」

女の子は、満面の笑みを浮かべた。青い空とかわいい女の子。本当に今日はいい日だ。

「やっぱり、わたしは学校に行ってまじめに勉強していた方が向いているみたいですね。なんだか、すっきりしました。ありがとうございます。それで、行儀の悪いことっていうのは、お弁当を食べてもいいですかということなんですけど。さっきから、とてもお腹空いているんです。」

「あはは、どうぞ。」

彼女は、かばんを開けお弁当の包みを出した。運転席に幸せな匂いが伝わってくる。お弁当は幸せの詰め合わせだと思う。

「これ、よかったら。」

顔の前に差し出されたのは、うさぎの耳状に皮をカットしたりんご。バスは、誰もいない展望台入り口を通過したところだった。眼前には海がひろがり、りんごも甘酸っぱい香りが潮騒のように僕を刺激した。僕は、そのまりんごを一口に含み、女の子を一瞬だけ見て目で礼をした。

女の子の弁当箱の中身は、すべてりんごだった。全部、ウサギだった。

赤鬼でりんご。まったくもって、悪くない。悪くない。


ちょっとそこまで行くだけだよ

九州の南端に近い海沿いの町、1984年の春と夏に僕と彼女はそれぞれ生まれた。

この町の西側はすべて海で、その海沿いをそっと指で撫でたような南北に長い形をしている。

僕はその南端、彼女はその北端に生まれ、今朝までの3年間は、そのど真ん中で一緒に暮らした。

そして、町の真ん中を走る1本の道以外に、道と呼べるものはない。

南北に4キロメートル、東西はもっとも長いところで、33メートルしかないからだ。

町の南端と北端は岬になっていて、西側はすべて海。南北を結ぶ道の東側に沿って、僕らが住むアパートをはじめ、小さなコンビニやレンタルCDショップ、一応すべての科が揃う診療所や床屋さん、郵便局や洋服屋、ハンバーガーショップまである。

高望みしなければ、それなりに生活していくのには十分な環境が揃っている。ひとつのことをのぞいて。

僕らの住む町にないもの、それは、『移動の自由』だ。

僕らは、この町から出て行ってはいけない。隣町にさえ行けない。

理由は、僕らの特異体質だ。僕らは姿かたちは何も特異的なものはないけれど、どうも脳の機能に特徴があるらしい。

未来が見えるのだ。身体の周囲10メートルの未来。

5年後、10年後、100年後、1000年後。

昨晩、いつものようにささやかだけど心地よい夕食を一緒に食べてから、いつものように彼女が食器を洗い、僕がタオルで拭いていると彼女が言った。

「明日、ここを出ない?」

「ここを出てどうする?」

「どうするのかな。分からないわ。だけど、ここにいちゃだめなような気がする。」

「でも、ここを出るともっとだめになるかもしれないよ。」

「多分、そうだよね。」

「そう多分。」

出て行くとどうなるか。僕らを含めて町に住んでいる人々約250人は知っている。

気が狂って死ぬのだ。他の土地の未来を見ると、気が狂って死ぬのだ。どうやら、未来に希望はないらしい。希望どころか、絶望の遥か上、果てしない悲しみがそこにあるということだ。

そうやって、僕らの友人、知人数名が亡くなった。

お通夜の晩は、いつも二人で出掛けて、歩いて帰った。死んでしまった知人も、僕らも無言のまま帰るだけだった。

亡くなった人々は、決まって安らかな表情をしていた。身体中の涙をすべて出し切ったようにすっきりとした顔をして死んでいくのだ。

果てしない悲しみの先には、安らぎが待っているということなのか。

「どうして出ていくの?ここを。」

「ここにいると、ずっとこのままでいられて、ここを出ると気が狂って死んでしまう。それは分かっているの。」

「死んでしまっていいの?」

「よく分からない。死んだことないから、分からない…なんてね。本当は死ぬのは怖いよ。怖いけど、ここは何もない場所なんだと最近、つくづく思うようになったの。何もないから、何も起こらない。何も起こらないことは今のわたしには耐えられないの。あなたがいて、わたしがいて、友達がいて、朝が来て夜がくる。それはとてもわたしにとって大切なことで、かけがえのないものだけど、その中心にいるわたし自身が空っぽなの。どうしてなのかずっと考えていたけど、ここにいては何も分からないわ。ここは、何も起こらないから。」

この町には、本当に何もない。希望から絶望まで。漫然と毎日を送るだけだ。微笑まじりの退屈しかない。彼女の言うことは、とても理解できた。

「で、どうやって出るの?この町を。」

「バスに乗っていくわ。」

この町を走るバスには2種類ある。ひとつは、南北に海沿いを走る道を一日15往復する通称『黄バス』。もうひとつは、外部から働きにやってくる人々用の『赤バス』。彼女は、この『赤バス』に乗り込むつもりだ。僕らこの町の住民が、この『赤バス』に乗るにあたり、制約は何もない。この町を隣町の間にゲートがあるわけでもなく、監視員もいない。ただ、出て行くと生きて帰ることが出来ない恐怖感だけが、僕らをこの町に縛り付けているだけなのだ。『赤バス』に乗って来て帰って行く他の土地の人々は、いつも決まっている。ちょうど15人だ。彼らは、僕らの特異な体質のことを知っている。この町から出て行った人がどうなったかも知っている。そういった人々が乗る『赤バス』に乗って、彼女はこの町を出て行こうとしている。出て行きたい気持ちはなんとなく分かる。分かるような気がする。いや、分かっているのだろうか。分かっていないような気もする。

この町に生まれ、この町に住むということは、あらゆることを受け入れるしかない。許容できずは死あるのみなのだ。

「でもね…。」

「ん?」

「わたし、ここに帰ってくるのよ。」

「……。」

「そんな顔しないで。ここを出て行った人たちがどうなったかも知っているし、あなたが今、何を考えているかも分かっているつもり。でも、わたしは帰ってくるの。あさっての朝には。1泊2日の隣町へのひとり弾丸ツアー。」

「ごめん。正直なところ、そう思えないんだ。そう願うけど、そう思えない。」

「うまく言えないけど、帰ってきて明後日の晩は一緒に食事するの。そして、次の日も、また次の日も一緒に食事をする。ずっとずっとずっと。」

彼女はポロポロと泣き始めた。

「わたしね…わたしやあなたやこの町の本当のことを知りたいの。この町から出た人が気が狂って死んでしまったことは、小さい頃から何度も何度も聞いたし、物心ついてからは、何度かそうやって死んでしまった人のお葬式にも出たでしょ。だけど、目の前で誰か死んだ?いつも、いつの間にか誰かが死んでいて、未来を見て気が狂って死んだんだって言われて。なんか、最近、それって本当なのかな。」

そういえばそうだ。もしかすると、壮大な都市伝説のようなものかもしれない。だからと言って彼女がそれを確かめる必要はどこにもないと思うけど。でも、この町で生まれ、この町で生活しているとすべてを受け入れるようになってしまうのだ。たとえ、最愛の女性が死に行くとしても。

明日、彼女はバスに乗って行く。

僕は待つ。

待つのだ。